第7章・織田信長と豊臣秀吉『で、あるか』③

道三自身は、長良(ながら)川の戦い(一五五六年)で息子の義龍(よしたつ)に殺され、波瀾(はらん)に満ちた一生を終えました。次男の孫四郎(まごしろう)を跡目に立てようとしたことで、長男の義龍と対立してしまったのです。どうやら義龍というのは、道三の子どもではなかったようですね。本当の父親は、道三のかつての主人、土岐頼芸。その胤(たね)を宿していた深芳野(みよしの)という側妾(そばめ)を、頼芸を追放した道三が妻にした後で、義龍が生まれたというわけです。

それはともかく、道三は長良川で義龍に討たれる直前に、「美濃を婿殿に差し上げたい」という手紙を遺(のこ)しました。たった一度の面会で、「蝮(まむし)の道三」と呼ばれて恐れられていた男にそこまで言わせてしまったのですから、やはり信長という人間の魅力と迫力は大変なものです。

もっとも、長良川の戦いでは信長が間に合わず、美濃は斎藤義龍の支配下に置かれました。しかし道三の予想は、信長との面会の十四年後に現実のものとなります。

義龍が三十五歳の若さで病に倒れ、その息子の龍興(たつおき)が跡を継ぐと、信長は行動を開始。五年間かけて美濃を攻略し、永禄(えいろく)十年(一五六七)、ついに稲葉山(いなばやま)城を落としました。ちなみにその前年、木曽(きそ)川対岸の墨俣(すのまた)に侵攻の拠点となる一夜城を築いてみせたのが、あの木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)、後の豊臣秀吉です。

この稲葉山城が、その後の天下統一への足がかりとなりました。この城は、いま見ても驚くほど高い所に建っています。そこから天下を見下ろしながら、信長は自らの野心をふくらませていったのでしょう。これ以降、信長は「天下布武(てんかふぶ)」と刻(きざ)んだ印章を使うようになりました。


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