今を去ること百四十年前、幕末の文久(ぶんきゅう)元年(一八六一)二月、ロシアの軍艦が対馬(つしま)にやって来て、兵を上陸させたことがありました。いわゆる「対馬事件」です。もちろん土地の役人は退去するように言いましたが、ロシアは勝手に上がり込んで兵舎を造り始め、さらには大砲を五十門も設置した。ロシア海軍は、「もうじきフランスが日本に攻めてくるから、自分たちが守ってやる。この大砲は日本に寄贈するから使ってくれ」と言って来たのですが、対馬といえば、日本海と東シナ海の境目にある戦略上の要衝(ようしょう)です。そこをイギリスやフランスに押さえられてはいけないのでロシアが先手を打ったというのが本当のところ。日本としては、はいそうですかと放っておくわけにはいきません。
そこで勝海舟(かつかいしゅう)の出番です。正面からロシアと戦っても勝てるわけがない。勝はイギリスの力を借りて見事な手を打ちました。勝からロシアの狼藉(ろうぜき)を知らされたイギリスは外交ルートを通じて強硬に抗議を行ない、ついにロシアは対馬から手を引いたのです。その当時の役職は天守番之頭格で講武所師範役でしたが、勝海舟の堂々たる政治感覚が発揮されたのです。
【コメント】
素晴らしい…。
では、また来週金曜日に更新いたします!