ところで、こうした素行や赤穂藩の思想の源流を遡(さかのぼ)っていくとき、織田信長(おだのぶなが)の存在を忘れ …
第2章大石内蔵助 「赤穂の武士道」を作った大学者⑥
さて、赤穂でさらに自らの学問を磨き上げた素行は、やがて代表作ともいえる大著『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』 …
第2章大石内蔵助 「赤穂の武士道」を作った大学者⑤
そういえば素行が江戸藩校の校長となった数年後に、こんなことがありました。 塩作りに成功した長直は、赤穂城に …
第2章大石内蔵助 「赤穂の武士道」を作った大学者④
そのとき素行が住んでいたのは、なんと大石家の隣。当然、内蔵助はその学問をじかに習うことができました。素行が赤 …
第2章大石内蔵助 「赤穂の武士道」を作った大学者③
浅野長直に見出されたのは、素行三十一歳のとき。一千石の厚遇を受けて江戸の赤穂藩校校長となりました。江戸に住む …
第2章大石内蔵助 「赤穂の武士道」を作った大学者②
わずか六歳で会津(あいづ)から江戸へ出た山鹿素行は、七歳のときに、幕府学問所の大学頭(だいがくのかみ)だった …
第2章大石内蔵助 「赤穂の武士道」を作った大学者①
思えば、藩祖の長直が塩作りの事業を始めたのも、長矩が刃傷事件を起こしたのも、そして内蔵助が討ち入りを敢行した …
第2章大石内蔵助 「鉄石の集団」⑦
そして討ち入り決行を宣言した評定で、内蔵助は同志を前にこう語りました。 「もしや勅勘(ちょくかん)(帝のお …
第2章大石内蔵助 「鉄石の集団」⑥
その間に内蔵助は、世の中が赤穂藩をどう見ているかということにも気を配っていました。自分たちが仇討ちを成し遂げ …
第2章大石内蔵助 「鉄石の集団」⑤
多くの脱落者の中に一人だけ、自分を許せずに自ら命を絶(た)った者がいました。主君の刃傷事件を最初に赤穂へ伝え …
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