第7章・織田信長と豊臣秀吉『袋め上手、叱り上手』②

ただし残念だったのは、これほどの人物だったにもかかわらず、晩節を汚してしまったこと。信長にはあと二十年ほど生きていてほしかったと思いますが、秀吉のほうは逆に、もっと早く身を引いてほしかったですね、勝手ですが。四国征伐、九州征伐を行ない、さらに小田原(おだわら)の北条(ほうじょう)氏を滅ばして天下を取るところまでは良かったのですが、その時点で才能を使い果たしてしまったんじゃないかとさえ思えます。

天下統一後も、太閤検知(たいこうけんち)や刀狩りなどの新しい政策を打ち出してはいますが、自分の母親や妹まで家康のところへ人質として差し出してしまったのは、やはりいただけません。『太閣記(たいこうき)』なども、悲しい気持ちになってしまうので、おしまいのほうはあまり読みたくないですね。司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんも「新史(しんし)太閤記』で秀吉が天下を取るところまでで書くのを止めておられますが、その気持ちはよく分かります。

自ら引き際(ぎわ)を悟って、「わしの代は終わった。こんどはそなたの番じゃ」と、潔(いさぎよ)く家康に天下を渡していれば、本当に素晴らしい一生になっていたことでしょう。権力というのはむずかしいもののようです。どんなに大きな魅力を持っていた人でも、それを手にした途端(とたん)に輝きを失ってしまうことがある。現在、会社や組織のトップに立っている人たちにとっても、いかに潔く後進に道を譲るかということは、とても大切なテーマだと思います。

もちろん私は、晩年が惨(みじ)めだったからといって、秀吉の功績をすべて否定しようというわけじゃありません。信長がいて、秀吉がいて、そして家康に始まる徳川二百八十年があった。それは間違いのないことです。

家康も、二人に対する尊敬と感謝は忘れていませんでした。家康を祀(まつ)った日光東照宮(にっこうとうしょうぐん)には、信長と秀吉もいっしょに祀られています。これは三代将軍の家光(いえみつ)がやったことですが、おそらく「わしを祀るときは信長公と秀吉公をお祀りするように」という家康の遺言があったのでしょう。初代将軍の家康が、先人を大切にする気持ちを忘れなかったからこそ、徳川政権は長くも続いたのだと私は思います。私たち現代人も、中部日本が生んだ三人の偉人に対する尊敬の気持ちを忘れてはいけませんね。


【コメント】

本日で「豊臣秀吉」はオシマイです。
次回からは「聖徳太子」です。
また来週金曜日に更新いたします!!