ただし秀吉には、信長と大きく異なるところもありました。それは、戦さのやり方です。
徹底的に敵を叩きのめした信長に対して、秀吉はできるだけ人を殺さないようなやり方を選びました。
たとえば敵の城を攻めるときでも、四方を完全に包囲するようなことはしない。三方から攻めて、必ず一方を開けておくのです。こうして相手に逃げ道を一つ与えておけば、あまり強硬な抵抗は受けません。したがって味方の損害も少なくなる。こちらのほうは、あまりに苛烈(かれつ)すぎた信長の戦さを反面教師にしていたのかもしれませんね。
実際、信長が比叡山を焼き討ちしたときにも、現場で指揮を執っていた秀吉は裏からこっそり手引きして、学僧たちを何人も高野(こうや)山へ逃がしてやっています。信長のヒステリックなやり方を見かねて、せめて優秀な学僧や貴重な文献などは守ってやろうと考えたのでしょう。いかにも秀吉らしいエピソードです。
先ほども申し上げたように、信長は戦さと同様、部下を叱るときでもまったく容赦しない人でした。相手を徹底してこき下ろしますから、部下のほうは立つ瀬がなくなってしまいます。プライドを傷つけられれば、憎しみも倍増するのが人情というもの。そういう意味で、信長には暗殺されても仕方がない点がありました。
ですから人間関係をうまくやっていくためには、秀吉の生き方に学んだほうがいいでしょうね。
さらに言うなら、人を使うときは相手をけなすより、褒(ほ)めてやることが肝心。
秀吉自身は信長に叱られても平気の平左(へいざ)でいられましたが、その一方で、誰もが自分のように振る舞えるわけではないこともよく知っていました。だから部下が手柄を立てたときは、うんと褒めた。ほんのわずかな手柄に対しても、びっくりするほどたくさんの褒美(ほうび)を与えたそうです。
秀吉が天下統一を成(な)し遂(と)げられたのも、こうした人使いの巧(たく)みさがあったればこそでしょ
う。墨俣の一夜城(いちやじょう)や中国・四国征伐で名を挙げた蜂須賀小六(はちすかころく)をはじめ、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)、黒田如水(くろだじょすい)など、秀吉に仕えた部下の中には、いかにも扱いがむずかしそうな曲者(くせもの)が少なくありません。それを上手に引き立て、適材適所で活かしていった手腕は実に大したものです。
【コメント】
この続きはまた、来週金曜日に更新いたします!