このように、日本の世の中に新しい風を吹かせた信長ですが、だからといって古いものを何でもかんでも捨てようとしていたわけではありません。彼ほど大胆な改革者でも、残すべきものはしっかり残そうとした。それは、天皇家です。
信長が足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京都に入ったのは、永禄(えいろく)十一年(一五六八)、稲葉山城を落とした翌年のこと。そこで御所の様子を目にした信長は、その荒廃ぶりに胸を痛めました。これではあまりに気の毒だ。そう思った信長は、その救済策を打ち出しました。
当時、京都には百二十七の町があったのですが、信長はその町一つあたり五石の米を貸し与えて三十パーセントの利子を取り、それを皇室の費用という形で献納させました。「ええ?米?」と今なら思うでしょうが、四百三十年前の時代には米という主食がどれほど貴重であったかを考えてみてください。昭和の戦争中も国民は米で苦しみましたね。それはさておき、この結果、毎月十五石八斗七升五合の米に相当する金が御所に納められるようになりました。
そこまでして信長が天皇家を守ったのは、それが日本という国の柱になると考えていたからです。これは、信長の思い描いていた国家像を知る上で、とても大切なポイントだと言えるのではないでしょうか。
源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開いて以来、日本を牛耳(ぎゅうじ)るのは「将軍」でした。しかし信長は、もう将軍というものでは国の中心にはなり得ないと思っていた。室町(むろまち)幕府でも、なんとか将軍らしい役割を果たしていたのは三代目の足利義満(よしみつ)あたりまでです。あとはどうにも頼りない。だからこそ、世は戦国時代を迎えたわけです。
それに、ここで仮に自分が天下を取って将軍になったところで、所詮(しょせん)、その権威は一代かぎりのもの。その先はどうなるのか。誰がなろうと、将軍は栄枯盛意(えいこせいすい)を繰り返していきますから、どっしりと国の真ん中に据えておけるようなものにはなりません。
そう考えたからこそ、信長は皇室を大切にしたのです。これを潰(つぶ)してしまえば、国の中心がぐらぐらと揺らいでしまう。それを見抜いていたことは、これまであまり語られてこなかった信長の功績だと私は思います。
【コメント】
次回の更新は、21日(金)です。
よろしくお願いいたします。