第7章・織田信長と豊臣秀吉『世界最初の新戦法』①

話が前後してしまいますが、稲葉山城を落とす七年前の桶狭間(おけはざま)の戦いも、まともにやったら勝てる戦さではありません。なにしろ信長の手勢は、わずか五千。対する今川義元(いまがわよしもと)は三万もの兵を率いていたのです。六倍も多い相手に挑んでいったのですから、まさに乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負だったといえましょう。

永禄三年(一五六〇)の五月、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河を治めていた今川義元は、天下取りを目指して京へ向かっていました。その今川軍が織田の拠点へ一斉攻撃を仕掛けたのは、五月十九日のこと。義元の命を受けた朝比奈泰能(あさひなやすよし)が驚津(わしづ)城を落とし、松平元康(まつだいらもとやす)(後の徳川家康)が丸根(まるね)城を陥落させ、信長を窮地に追い込みます。

二つの砦(とりで)が落ちたことを知った信長は、兵を中島砦に集結させて、様子をうかがっていました。力の差を考えれば、奇襲でしか勝つ見込みはない。時期を見誤って敵に悟られれば、すべてが終わってしまう。チャンスは一度しかありません。それが訪れるのを、信長は全神経を張り詰めて待っていました。

そこに飛び込んできたのが、今川軍が桶狭間で休止しているとの報。それを耳にした信長は、即座に「ここが勝機」と見極めました。いささかの迷いもなく攻撃開始を決断し、今川軍を急襲したのです。その信長に、天も味方しました。激しい暴風雨が吹き荒れたお陰で馬の足音がかき消され、接近を敵に気づかれずに済んだのです。勝負事には、やはり運も必要だということでしょう。天候を味方につけた信長は、神々に選ばれた人物だったとさえ私は思います。

信長軍の奇襲に意表を突かれた今川軍は、ひとたまりもありませんでした。大将の義元も討たれて、今川軍は東へ敗走。この勝利で東海地方一帯を手中に収めた信長は、今川氏から離れた松平元康と結んで、さらに勢いを増していったのです。


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