第7章・織田信長と豊臣秀吉『なぜ、信長は比叡山を焼いたのか』②

また、いい加減な宗教がはびこっていたのでは、天下を統一して平和を保つことができないという思いもありました。宗教だけでなく、たとえば堺(さかい)の商人たちを厳しく押さえつけたのも、彼らが城を造って浪人たちを集めるなど、中央に反抗して勝手なことをしていたのが許せなかったからのようです。

「天下を仕切るのは俺だ。町人どもが何を勝手なことをぬかしておるか」

ということで、それを叩き潰そうとした。一説によれば、これが明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)につながったともいいます。「信長憎し」で結束した堺の商人たちが光秀に入れ知恵をし、資金も与えて本館寺(ほんのうじ)の変を起こさせた、というわけです。それが事実かどうかは分かりませんが、信長の生き方が他人の恨みを買いやすいものだったのはたしかでしょうね。

でも、そういう生き方を貫(つらぬ)いたからこそ、信長は歴史に大きな足跡を残したんです。古くて役に立たなくなったものは迷わず切り捨て、新しいものはどんどん取り入れる。その思い切りの良さが、信長の真骨頂(しんこっちょう)です。だからこそ、人をあっと驚かせるようなアイデアを思いつくのでしょうし、ためらわずにそれを実行に移すこともできたのでしょう。

そんな信長の才能は、戦(いく)さでも遺憾(いかん)なく発揮されました。戦国時代の武将の中でも、信長ほど戦術に工夫を凝(こ)らした人はいません。上杉(うえすぎ)軍や武田(たけだ)軍などにくらべて、手持ちの軍勢が弱かったこともあったのでしょう。人と違う工夫をしなければ、生き残れなかったのです。
人のやらないことをやり、勝機を見出したら一気呵成(いっきかせい)に攻める。その頭の切れ味と決断力が、織田信長の生命線でした。


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