そのとき素行が住んでいたのは、なんと大石家の隣。当然、内蔵助はその学問をじかに習うことができました。素行が赤穂にいたのは、九年間。このころ内蔵助は八歳から十七歳ですから、まさに多感な時期に素行の肉声を聞きながら人の道を学んだことになります。
ちなみに幕府に咎(とが)められた『聖教要録』は、かつて素行も学んでいた幕府公認の朱子学を批判する内容でした。その中で素行は、「今は幕府の老中や大老、それに地方大名や代官も、年貢(ねんぐ)の取り立て方があまりにも苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)で厳しすぎる。こんな天子様の御心(みこころ)に背(そむ)くような政治はいけない」というようなことを述べています。これだけを見ても山鹿素行の学問と忠臣蔵の結びつきはよく分かろうというもの。素行、そして赤穂藩の人々にとって、「天子様の御心」こそが、すなわち尽くすべき「公」だったのです。
【コメント】
「苛斂誅求」は、“税金を容赦なく厳しく取り立てること”だそうです。
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