第2章大石内蔵助 「赤穂の武士道」を作った大学者③

 浅野長直に見出されたのは、素行三十一歳のとき。一千石の厚遇を受けて江戸の赤穂藩校校長となりました。江戸に住む赤穂藩の家臣たちは、みな山鹿素行の生徒になったわけです。さらに、そののち素行は赤穂本国で学問を講ずることになりました。といってもこれには子細があって、寛文(かんぶん)五年(一六六五)、四十五歳のときに出した『聖教要録(せいきょうようろく)』という著作が幕府を批判したためのことでした。

 素行は学問を禁じられ、浅野長直にお預けの身となりました。こうして赤穂に根を下ろした素行は、藩の人々に自分の学問を叩き込み始めたのです。学問を禁じられた身ではありますが、地方の片隅でやっているだけなら幕府も見て見ぬふりをしていたのでしょう。


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