第2章大石内蔵助 「赤穂の武士道」を作った大学者②

 わずか六歳で会津(あいづ)から江戸へ出た山鹿素行は、七歳のときに、幕府学問所の大学頭(だいがくのかみ)だった林羅山(はやしらざん)の門下生となりました。まさに早熟なる天才で、十一歳のときには松江(まつえ)城主の堀尾忠晴(ほりおただはる)が「二百石で召(め)し抱(かか)えたい」と申し出たぐらいです。もっとも、そのときは素行の父親が「いくら何でも無茶でございます」と断わったそうですが、その後、素行は十四歳のときに、関ヶ原(せきがはら)の戦いなどで功を立てたことで有名な甲州流軍学の始祖・小幡宗憲(おばたかげのり)の門に入りました。


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