第2章大石内蔵助 「鉄石の集団」②

 内蔵助がいちばん心を砕(くだ)いたのは、討ち入り決行までに鉄の結束の集団を作り上げることでした。広く天下に問いかけるような事を起こす以上、討ち入りに加わるメンバーは全員が強い信念と意志を持っていなければなりません。いい加減な気持ちで加わる者が一人でもいれば、計画そのものがぎりぎりのところで頓挫(とんざ)してしまう恐れもあります。

 烏合(うごう)の衆ではいけない、と内蔵助は考えました。人数を集め、勢いに任(まか)せて決起したところで、烏合の衆では何事も成功しない。たとえば源平時代に六万の兵を率いながら木曾義仲(きそのよしたか)が敗れ去ったのも、人数ばかりで質が伴わなかったからです。あのとき義仲軍に人が集まったのは、そちらに勝ち目があると踏んだ連中が「いま義仲軍に加われば恩賞にあずかれるに違いない」という打算だけで行動したからでしょう。そういう人間がいると集団の力が落ちることを、内蔵助はよく知っていました。


【コメント】

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれた木曽義仲の家来たちのこと。これを、本文にもありますように“烏合の衆”として三波春夫は、アルバム「平家物語」に収録されている『木曽義仲一代記』に書いて、歌っています。
歌詞そのものは記載できませんが、その内容は、“義仲は、平家を破った勢いでとうとう都へ一番乗りをしたのだけれど、悲しいことに烏合の衆は、乱暴狼藉で物を盗る始末。それでも武士かと恨みの声があがって、御所から頼朝に院宜がくだり、義経を総大将とした軍により攻めたてられた。巴には「そなたは、あくまで生きよ」と言って別れて、32歳の短い生涯を終わった”というものです。
この前段には、“義仲の生まれから、木曽での勢い、我が子の義高を人質に出したこと”なども歌っています。
ユーキャンから発売中の「三波春夫の世界」に収録されておりますので、お聴き頂けましたら有難く存じます。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。