第1章高田屋嘉兵衛 「浪曲上等兵」の終戦④

 幸い弾は当たらず、彼らは這々(ほうほう)の態(てい)で逃げていきました。やがてソ連軍が大砲を撃ち込んでくる。私たちはたまらず山を降りて、戦争が終わったことも知らずに逃避行を始めました。

 やっと終戦を知ったのは九月九日。国際ルールを知らなかったばかりに、二十五日間も余計な苦労をしてしまったことになります。

 現場の兵隊が国際ルールを知らなかったのは、突き詰めれば国際的な広い視野を持った軍事指導者が日本にいなかったからだろうと思います。それが昭和の日本が抱えていた最大の欠陥だったのではないでしょうか。国際条約では、軍服を着ていなければ名誉ある降伏はできないのですが、それすら当時の私たちは知りませんでした。

 けれども、これまで日本に国際感覚を持った人物がいなかったわけではありません。話を戻せば、その一人がここで紹介している高田屋嘉兵衛。リコルドが国際儀礼をわきまえていたことは前述のとおりですが、そのリコルドと対等以上に堂々と渡り合い、立派に交渉をまとめたのが嘉兵衛さんなのです。

 こういう人物が過去にいたのですから、歴史を学ばないとは何ともったいないことかと思わざるを得ません。


【コメント】
“9月9日”は、三波春夫の実母の命日にあたりました。7歳で母を亡くしてから、命日を忘れたことがなかった三波でした。
この、終戦を知った9月9日は、不寝番をしていて、疲れからふと眠ってしまった夢の中で、母親が何かを言った姿があり、目が覚めたところで上官から日本の降伏を知らされた、と生前に語っておりました。

では、次回は嘉兵衛さんの話に戻ります。
また来週金曜日に更新いたします。