第1章高田屋嘉兵衛 「浪曲上等兵」の終戦③

 生きていたのは、強運としか言いようがありません。おそらく三時間ぐらい気を失っていたのでしょう。目が覚めたとき、周囲には誰もいませんでした。仲間も私が死んだものと思って、私を置いて全員退却していたのです。あちらこちらさまよった末に本隊に戻ったときは、「おお、浪曲上等兵、おまえ生きていたか」とずいぶん驚かれました。浪曲上等兵というのは、当時私につけられていた渾名(あだな)です。

 最後の退却に加わった私は、仲間とともに山の中の陣地に逃げ込みました。先ほど言った「ひどい失敗」が起きたのは、この陣地にソ連の軍使がやって来たときのこと。向こうは白旗を掲(かか)げて軍使の体裁を示していたのに、誰かがそれに目がけて撃ってしまったんです。明らかな国際条約違反でした。しかもその日は、八月十四日。つまりソ連の軍使は、「戦争は終わって日本は負けたから、抵抗をやめて降伏するように」と伝えに来てくれたわけです。それを私たち日本軍は撃ってしまった。不勉強な話です。


【コメント】

不勉強な人々までも駆り出されて、戦場に送られるのが戦争なんだと分かります。

“浪曲上等兵”という渾名の起こりは、応召までプロの浪曲家だったことを皆が知って、入隊後の訓練の時期に時間があると「浪曲をやってくれ」と皆から頼まれて、皆の楽しみのために浪曲を語って人気だったことです。当時、“浪曲”は日本中を席捲した全盛の時代でした。

終戦後、シベリアでの4年間の抑留生活でも、強制労働の傍ら、皆の心を元気にするために浪曲を語り、自分でたくさんの新作も書いて語り、そのうちに芝居も書いて演出して主演。人前で披露できる藝がある自分は、皆を励ますことが出来る、それならば頑張らなくては、と、活動したのでした。

ではまた、来週金曜日に更新いたします。