聖徳大子は、敏達(びたつ)天皇元年(五七二)元旦に用明(ようめい)天皇の皇子としてご誕生。従来の説は敏達三年とありますが、没年から逆算すると元年が正しいようです。母君(ぎみ)は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后ですが、祖父君は二十九代欽明(きんめい)天皇。太子も蘇我(そが)氏の出自(しゅつじ)です。父君の用明(ようめい)帝がまだ天皇になられる前に太子は生まれたのですが、父君が磐余池(いわれのいけ)の宮殿にお住まいで、その上の宮にお住まいになったので、「上宮太子(じょうぐうたいし)」あるいは「上(うえ)つ宮(みや)」とお呼びしたそうです。「厩戸(うまやど)の皇子」という称(よ)び名については後で申し上げます。
さて、太子が十六歳の時に、大事件が起きました。仏教を信奉する蘇我氏と日本古来の神道を奉じる物部(もののべ)氏の戦闘です。宗教をはさんで戦ったというのは表面上のことで、実は物部氏は大和朝定を奈良の三輪(みわ)に初めてうち樹(た)てた出雲王朝の第五子・饒速日尊(にぎはやひのみこと)の一族で、軍事力を。司(つかさど)っていた大勢力の大連(おおむらじ)。かたや蘇我氏は、大和朝廷の大蔵大臣、主計局長として、金銭出納(すいとう)の権限を持っていたのです。つまり、軍事の物部と財政の蘇我の勢力争いがあったというわけです。
太子も参戦したこの争乱は、ご存じのように蘇我馬子(うまこ)が勝って、朝廷勢力を握ってしまいました。そして、崇峻(すしゆん)天皇を用明天皇の没後に即位させ、権力を振るいました。崇曖天皇はご気性(きしょう)の荒いお方で、馬子の言うことにたびたび反発したそうですが、ある時、甥(おい)の上宮太子を呼んで、
「そなたは易学にたいへん通じていると聞いたが、朕(ちん)の相を占(うらな)ってみてくれ」
と言われた太子は、天皇のお顔をまじまじと拝見して、
「恐れながら、陛下の瞳(ひとみ)の中に赤い星がございます。これは、たいへん危険な星。どうかこれよりはお言葉をお慎(つつし)みになり、よくよくお気をつけ遊ばすように。この先、御一身(ごいっしん)に大事が起こるやもしれませぬ」
これを聞かれた崇峻帝は鏡を取りよせて、
「そうか。朕の瞳にはそんな星が出ておるか。そなたの言うとおり、慎まねばならぬ」
と領かれたといいます。
【コメント】
続きはどうなるでしょうか。
来週金曜日に更新いたします。
10日高円寺の「座」にて、松阪ゆうき、三丘翔太、羽山みずき、朝花美穂の4人による『我らがつなぐ歌藝の道 長編歌謡浪曲』コンサートが開催されます。
お陰様で今回のチケットは完売となりましたが、第2弾もあるかと思いますのでまたお知らせ申し上げます。