第7章・織田信長と豊臣秀吉『自由経済の真価を知っていた信長』①

長篠の戦いで武田勝頼を下した信長は、その翌年、安土城を築いて美濃から近江(おうみ)に移りました。当面の敵は、越後(えちご)の上杉謙信(うえすぎけんしん)と石山本願寺(いしやまほんがんじ)の顕如(けんにょ)。天正(てんしょう)六年(一五七八)に謙信が急死したので越後のほうは恐るるに足らなくなったものの、およそ十年にも及ぶ本願寺との戦いは、信長を大いに悩ませていました。

その石山合戦に転機をもたらしたのが、大坂湾での毛利(もうり)水軍との戦いです。

信長は本願寺を兵糧(ひょうろう)攻めにしていたのですが、精強な毛利水軍に阻(はば)まれて、海上を封鎖することができないでいました。他の入り口をふさいでいても、海から食糧を運び込まれたのでは、本願寺に致命傷を与えられません。

そこで信長は、またとんでもないことを思いつきました。木津(きづ)川で毛利水軍に大敗した後、周囲に堅い鉄板を張(は)り巡(めぐ)らした甲鉄船(こうてつせん)を建造したのです。これなら、いくら鉄砲や矢で攻められても、みんな弾(はじ)き返してびくともしません。まさに「矢でも鉄砲でも持ってこい」といわんばかりの、大胆不敵な軍船でした。新たな船を手にした織田水軍は、わずか六隻で毛利水軍を撃破。本願寺に立てこもる顕如を追い詰めたのです。

この勝利をきっかけに講和がまとまり、顕如は石山を去りました。顕知の子・教如(きょうにょ)はこれに納得せず籠城(ろうじょう)を続けましたが、信長軍の前にあえなく敗退。このとき火をつけられた本願寺は、三日三晩、燃え続けたといいます。


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