ここで話は少し脱線します。少しじゃ済まないかもしれませんが、全然関係のないお話をするわけではありませんので、どうかご容赦を。それというのも、私が満州でソ連軍と銃火を交(まじ)えた際、われわれ日本軍が国際ルールをわきまえていなかったばかりに、ひどい失敗をした経験があるのです。
終戦を間近に控えた、昭和二十年八月。アメリカの原爆投下を知ったソ連は、日本が降伏する前に参戦しようと、怒濤(どとう)のごとく満州に進撃してきました。激しい戦闘になり、若い戦友が「お母さん!」と叫びながらバタバタと死んでいきます。ソ連の兵士たちも「ママ、ママ!」と泣きながら事切れる。余談の余談ですが、たぶん洋の東西を問わず、戦場では誰もが母親を呼びながら死んでいくのでしょう。「お父っつぁーん」と叫んで死ぬ人はまずいない。私は戦場で、母親と子どもの絆(きずな)の深さをまざまざと知りました。
【コメント】
この話は、講演の折、よく話しておりました。
昭和20年8月は、三波春夫は22才になってほぼ1ヶ月、でした。
ではまた、来週金曜日に更新いたします。