千五百石船というのは、単に資金さえあれば建造できるわけではありません。もちろん二十六歳の若さでそれだけの資金を用意できた嘉兵衛さんの財力は相当なものですが、なにしろ当時は幕府が千石船を上限と定めていたのです。その規制を越える船を建造できたのですから、そこには何か特別の理由があるはず。おそらく嘉兵衛さんは、財力と同時にかなりの政治力を身につけていたのでしょう。
それに加えて、このころから幕府の隠密(おんみつ)が高田屋嘉兵衛という優秀な船頭に注目し、その有能さを幕府に報告していたんじゃないかと私は推測します。それを受けて幕府も、いずれ北方政策を推進する上で役立つであろう重要人物として一目(いちもく)置いていた。だからこそ、規制を上回る船を建造しても文句を言われなかったのではないでしょうか。また、現実の問題として、この時期は物の生産がたいへん増加しており、輸送量の拡大は急務でした。
【コメント】
嘉兵衛さんを歌った三波春夫作詞の「あゝ北前船(きたまえぶね)」に、『海が時化(しけ)たと弱音を吐くな 沖のかもめが笑うじゃないか』とあります。
勇気と技量のある嘉兵衛さんのお話は、また来週金曜日に更新いたします。