第7章・織田信長と豊臣秀吉「尾張の大うつけ」②

そういう人ですから、信長のやることにはいちいち人の度肝(どぎも)を抜くようなところがありますね。何をやらせても、ドラマチック。子どもの頃から数々の奇行で周囲の人々を困らせていたようですが、それが逆に人を惹(ひ)きつける魅力にもなっていたのではないでしょうか。

「尾張の大うつけ」などと呼ばれたこともありましたが、それは単に評判が悪かったということではありません。信長の放つ強烈なエネルギーに、人々が畏怖(いふ)の念を抱いていたことの裏返しだと思います。

有名な斎藤道三(さいとうどうさん)との会見でのエピソードも、そんな肩長の魅力を物語るものですね。

斎醸道三といえば、下剋上(げこくじょう)の時代を代表するような、一癖(ひとくせ)も二癖(ふたくせ)もある人物。油売りから身を起こして、やがては美濃(みの)の国を牛耳(ぎゅうじ)るようにまでなったのですから、その成り上がりぶりには凄まじいものがあります。

その斎藤道三と信長は、政略結婚によって義理の親子の関係になりました。信長の父・信秀(のぶひで)と手打ちをした道三が、娘の濃姫(のうひめ)(別名もある)を織田家に嫁(とつ)がせたのは、信長が十六歳のときです。そのとき濃姫はまだ九歳でした。

義理の親子が初めて顔を合わせたのは、それから四年後のこと。娘を嫁がせた相手に四年も会わないとは常識外でしょうが、当時の政略結婚というのはそんなものだったのでしょう。

そもそも斎藤道三と信秀は、たびたび衝突していたライバル同士。そのライバルに娘を嫁がせたのは、信秀が元美濃守護の土岐頼芸(ときよりなり)を助けて道三を攻撃しようとしたことがきっかけでした。とりあえず信秀との衝突を避けたかった道三のほうから、講和を持ちかけたのです。そんな成り行きですから、娘の結婚相手に会わないのも不思議ではありません。

しかし道三も人の親。信長が二十歳のときに、「婿(むこ)に会ってみたい」と言い出して、二人は初めて面会することになりました。天文(てんぶん)二十二年(一五五三)、四月下旬のことです。その二年前に信秀が亡くなり、信長が跡を継いでいたことも、道三の心境に変化を与えていたのかもしれません。


【コメント】

次回は会見の様子をお伝えします!
また来週、金曜日に更新いたします。