第4章・平清盛 「清盛と秀吉の共通点」②

 ところが、これが多田行綱(ただのゆきつな)の密告によって清盛の耳に入りました。さっそく清盛は千五百人もの軍勢を引き連れて神戸から上洛。俊寛以下、謀議に加わった首謀者たちを引っ捕らえました。その結果、藤原師光は朱雀大路(すざくおおじ)で打ち首。藤原成親も備前(びぜん)に流され、さらに俊寛をはじめとする数名は、鬼界島(きかいがしま)へ流刑となりました。

 謀議の内容が内容ですから、首謀者がこれぐらいの罰を受けるのは当然でしょう。しかし清盛は、そこで鉾(ほこ)を収めました。栄華を誇っていた平氏を討とうと企(たくら)んだのですから、その背後には多くの賛同者がいたはずです。もしも清盛が信長のような性格だったら、見つけ出して根こそぎ叩き潰したのではないでしょうか。けれど清盛はそこまでやりません。俊寛は断食の末に鬼界島で亡くなったものの、それ以外の流人(るにん)は中宮徳子(ちゅうぐうとくこ)の出産の際に赦免(しゃめん)されています。


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